みどころ①
1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路「西国三十三所」。その総距離は約1000キロメートルにも及び、すべての札所を巡拝するためには、歩いて数ヶ月かかります。本展は、「三十三所の至宝」が一堂に公開される、またとない機会となります。
みどころ②
本展では、33の札所が有する国宝、重要文化財など貴重な宝物が多数展示されます。寺外への出陳が初めてとなる「秘仏」も公開されます。
みどころ③
日本最古の巡礼所三十三札所は、閻魔大王のお告げを受けた徳道上人が人々を救うために定めたと伝わる観音霊場です。本展では、七観音(聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝観音、不空羂索観音)すべてのお姿をご覧いただけます。
『妙法蓮華経(法華経)』の普門品には、観音は33通りに姿を変え、諸々の悩みや苦しみから人々を救うと説かれています。こうした利益に基づき、古来より多くの人々の信仰を集めた観音は、一様ではなく、さまざまな姿で表されてきました。それぞれの観音には、より所となる経典が存在し、儀軌とよばれる規則には像容が定められています。いにしえの観音信仰を示す遺品をはじめ、観音について説く多様な経典などを紹介します。
片脚を一方の脚の上に組み(半跏)、片手を頬に当ててものを思う(思惟)姿から、半跏思惟像ともよばれる。如意輪観音の化身とされる聖徳太子への信仰と結びつき、わが国ではこのような姿の像は如意輪観音とも考えられた。
西国三十三所は、長谷寺の開基とされる徳道上人が仮死状態に陥ったさい、地獄で閻魔大王より巡礼の功徳を広めるよう依頼されたことにはじまる、という説話があります。地獄からの救済は、現世・来世を問わず、人々が観音へと期待した利益ですが、一体そこはどのような場所であったのでしょう。六道思想に基づいて制作された「六道絵」、あるいは「餓鬼草紙」といった関連する作品から、先人がイメージした地獄のすがたを可視的に示します。
執着を捨てられなかった者が死後に身を堕おとす、餓鬼の世界を描く。水を飲むこともできず苦しむ餓鬼のリアルな表現は、当時の人々が救いのない苦しみを切実に感じていた証拠。平安末期の末法思想に裏づけられた作品である。
西国三十三所の成立には、謎に包まれた部分が多く、なかなか確実なことは言えません。その中にあって、大きな役割を果たしたと伝承される人物として、徳道上人のほか、花山法皇や圓教寺の性空上人などがあげられます。彼らの姿を描いた肖像の紹介とあわせて、粉河寺の創立や本尊である千手観音像の霊験を描いた「粉河寺縁起絵巻」をはじめ、それぞれの寺院の由緒や歴史を説いた縁起類を紐解き、聖地のはじまりをたずねます。
長谷寺の開基とされる徳道上人は、地獄で閻魔大王より観音霊場三十三所の功徳を広めるように依頼され、よみがえると三十三所巡礼の利益を説いたと伝えられる西国巡礼の祖。
密教の金剛界曼荼羅の中心、成身会を構成する如来・菩薩像や、諸尊の持物を平面でなく、立体で表現したほかに例を見ない品。分蔵されており、そろっての展示はまれ。
修行僧や修験者たちを中心に行われてきた西国三十三所巡礼は、次第に階層的な広がりをみせ、彼らに伴われるかたちで武士や一般庶民も行うようになります。こうした人々による信仰に根ざした参詣は、天変地異あるいは兵乱により、荒廃した堂舎を再建するうえで大きな力を発揮しました。新たなる巡礼者をいざなうにあたり、各寺院の歴史や功徳をわかりやすく説明した参詣曼荼羅や勧進状など、重要な役割を果たした作品を紹介します。
槇尾山の伽藍を描く。天正9年(1581)に織田信長と対立し焼き払われたが、本図はその焼失直前の姿をとどめる。参詣曼荼羅は、寺院の財源確保のための勧進に用いられたと見られ、親しみやすい表現を身上とする。
中央に釈迦三尊と聖徳太子を配し、周縁に三十三所の本尊を描いたもの。このような三十三所本尊を曼荼羅風に描く作品は鎌倉時代後期から現れ始めるが、本図はその中でも特に古い作品として有名である。
西国三十三所の札所寺院は、聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音・不空羂索観音のいずれかが本尊となっています。これら7種の観音が、六道思想の展開により生まれた六観音と一致するのは、観音霊場としての成立と関係するともいわれます。古来より今にいたるまで、貴賤を限らず、真摯な祈りをささげた多様な観音のすがたを絵画、そして彫刻を中心に辿ることで、信仰のかたちを追体験していただきます。
建礼門院徳子(平徳子)が、治承2年(1178)6月27日に安産祈願のため寄進したとの伝承を持つ秘仏である。
紀三井寺は、秘仏の十一面観音をまつるが、その本尊とは別に同時期の十一面観音がもう一躯ある。本像がそれである。一木造という構造は古様だが、表情が穏やかで衣文が浅い点から、10~11世紀の製作と思われる。
本来は上醍醐の観音堂本尊であった、と考えられている千手観音像。観音堂は、天徳年間(957~61)に建てられたと伝えられている。本像の重量感にあふれながらも、起伏の少ない穏やかな作風はまさにその時代のもの。
一面三目八臂の不空羂索観音で、第九番札所である興福寺南円堂の模刻像と考えられている。南円堂像は像高340cmを超えるが、本像は像高12cmほどの小像。檀像を意識したためか、南円堂像より装身具が細やかである。
秘仏馬頭観音のお前立として祀られる等身大の木像。三面(馬頭を入れると四面)八臂の像で、観音としては珍しく怒りの表情をうかべる。三十三所で馬頭観音を本尊とするのは松尾寺のみである。
琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺に伝わる観音像。ほぼ直立するが、わずかに腰を左にひねっている。定朝様の延長線上にある穏やかな姿の像で、体や衣は起伏が少ない表現となっている。
本図は醍醐寺鎮守、清瀧権現の本地仏として描かれた。左側の准胝観音は除災、求児、安産などのために修される密教の准胝法の本尊だが、三十三所で本尊として祀るのは上醍醐の准胝堂のみ。
西国三十三所の巡礼が階層的、さらには地域的な広がりを持つようになると、そこには別の側面も加わるようになります。行楽としての旅は最たるもので、さまざまな人々が集うようになり、活況を呈しました。それぞれの目的は違えど、本尊の観音に手を合わせて祈ることに変わりはなく、その営みが絶えることはありません。こうした巡礼の盛況とともに刊行された書物、または訪れた人々が実際に身につけたり、奉納した遺品にふれます。
西国三十三所の巡礼者が参詣のおり、その証として納めた札。こうした札を納めた人々の中には、武士や一般庶民も多く含まれている。時代の経過とともに、巡礼が次第に階層的、さらには地域的な広がりをもったことがわかる。
観音霊場としての西国三十三所は、平安時代の12世紀前半には成立していたと考えられています。しかし、歴史や宗派が一様でない各寺院には、「観音」あるいは「三十三所」といったキーワードだけでは語ることの出来ない、固有の寺宝が数多く伝えられてきました。これらを伝えるのは、時代や環境の変化と向き合わなければならないため、容易ではありません。先人たちの努力により、受け継がれてきた至宝の数々をご覧いただきます。
『法華経』二十八品をそれぞれ一巻として、金銀箔や砂子などで飾った料紙に書写する一品経。鎌倉時代前期を代表する装飾経で、長谷寺に伝わっていることから「長谷寺経」と呼ばれる優品。「観世音菩薩普門品」は行書で書写されている。
坂上田村麻呂が観音の霊験によって、鈴鹿山の鬼神を退治した後、奉納したと伝わる「騒速」とその差添計3口のうちの1口。いずれが騒速かは不明。
刀八毘沙門天は兜跋毘沙門天のこと。本図では「とばつ」の音通で「刀八」の字が当てられ、「とうはち」と読むようになった。三面十二臂の騎獅像で、名称にちなんでうち八臂に刀を持たせている異相である。